あなたが教えてくれた感情

「ハールさん、どこですか?!」
陣営に娘の声が響いた。
赤髪の彼女の頭の上のポニーテールが左右に揺れる。
目的の男は、また何処かで眠りこけているのだろうか?
そんなこんなことを考えていると、彼女・・・ジルの口元は自然と緩む。
いつもいつも昼寝ばかりしている彼だが、実は自分以外の他人の前では熟睡しないと知ったのは最近のこと。
だからそれを知ってからは彼の寝顔を見られることが嬉しくなってきた。
・・・・・・それがサボタージュならば別だが。
一体何処にいるのか、皆目わからない。
ジルはキョロキョロと見回すが、男の影も形もない。
そうして彼女が軍の陣営のはずれまで来た時、前方に見覚えのあるシルエットが見えた。
件の男である。
ジルは顔を輝かせ、男の名を呼ぼうとして――止まった。
彼ともう一人、人影が見えたからだ。
翡翠色の髪の美しい女性が、ハールと談笑している。
たったそれだけの事実が彼女の足を完全に止めた。
デイン軍として皇帝サナキたちに奇襲と仕掛けた際、ジルと彼女は対峙している。
確かシグルーンという名前だ。
少し離れた所にいるので何を話しているのか、まるでわからない。
けれどその女性は実に楽しそうで、彼はいつもの顰めっ面ではあったが決して嫌そうではなかった。
同性が見ても見惚れてしまいそうな程に麗しい笑みでハールと会話する女性。
普段自分に見せる表情とは違う彼の表情。
心の奥底で、きゅっと小さな音がする。
止まっていた足は向きを変え、物凄い勢いで自分の天幕を目指す。
俯いたまま、誰にもその顔を見られぬように。
今にも涙が出そうだった。
いつもいつもハールの隣にいるのが自分でなくてはならない、なんてことはないということは分かっている。
二人は互いに知り合いなのだから積もる話もあるはずだ。
「・・・あ、ジル!
今サンドイッチ作ったんだけど」
ミストがジルを見つけ、声をかける。
だが、それでも娘の走り出した両足は止まらない。
呆気にとられたように彼女は親友が走って行く、その先を見る・・・
やっと天幕へと辿り着いた彼女は自分の天幕に駆け込み、坐り込んだ。
あそこにいるのが自分でない、というだけのことでこんなに寂しい気持ちになるなんて思わなかった。
そんな自分にびっくりしてしまう。
ずっとずっと昔からハールのことが、好きだった。
そして、彼から『恋』という感情を教えてもらった。
それはとても素晴らしく美しい想いだろう。
だけれども、『恋』という正の感情は同時に負の感情も連れて来る。
「なんで、こんなに辛いんだろう」
天幕の中で一つ、言葉が生まれすぐに空気に溶けて消えた。
身勝手にも似た想いが頭の中を巡る。
彼が彼女に教えてくれた二つ目の感情、それは・・・嫉妬。


素直に甘い話を書けよ自分、と思いつつ。
恋ってきっと綺麗なだけではなく、嫉妬みたいな黒い想いもあってこそなのだと思います。
正だけでも負だけでもでなくて、両方が混在していることが「誰かを好き」ってことなのでしょうね。



作中のハールさんとシグ様の会話を考えてみました。
ちょっと私の妄想設定なんかがあったりなかったりします。

「私の言った通りだったでしょう?」
その時一瞬ハールは何を言われたのかわからず、変な声を上げた。
けれどシグルーンは、にっこりと微笑んで続ける。
「あなたがベグニオンを出る前の話です」
言われて何やら思い出したのか男は顔を顰めた。
「その頃まだ私が10にもならなかった時、あなたに告白しましたのよね」
「・・・・・・昔の話だろ」
「あら、私ははっきり覚えてますわよ」
そう言った彼女は麗しいほどの笑顔で、けれどそれは男には怖かった。
「子供だと言って振ったのですよね、私のこと」
「・・・だから昔の話だろ」
二回目である。
「『そう言ったこと、後悔しますわよ』」
20年前と一言一句違えない台詞に男は目を逸らす。
確かに後悔している。
今、この瞬間。
それを見ていたシグルーンは思わず笑い出してしまった。
「すみません。
・・・・・・少し意地悪を言いたくなっただけですわ」
「・・・冗談でもやめてくれ」

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